掃除だけで悟りを開いたお釈迦様の弟子、周利槃特(チューラパンタカ)
こんにちは。本木 ななです。
私とろくがお世話になっております。
私が最初にこの話を知ったのは、子供の頃に和尚さんから聞いたものでした。
子供向けなので、わかりやすいようにアレンジして頂いていました。
おそらく以下のようなものだったと思います。
~ここから~
お釈迦様のお弟子さんの中には、とてもバカな人もいました。
その人はお釈迦様のありがたいお話をなかなか理解できず、やっと理解できたと思ったら片っ端から忘れてしまってお話を聞く前の状態に戻ってしまうという、それほどのバカな人だったそうです。
自分はバカで何もできないと嘆き悲しんでいたこのお弟子さんに、お釈迦様は言いました。
「では、得意なことは何ですか?」
そのお弟子さんは答えました。
「掃除です。得意というか、そんなことぐらいしか私にできることはありません」
お釈迦様は答えました。
「よろしい。ならば、掃除をこれから毎日続けなさい」
お釈迦様そう仰って、一本の箒をこのお弟子さんに授けました。
その日からこのお弟子さんは、毎日毎日ひたすら掃除を続けました。
それを何年も何年も続けていたある日、このお弟子さんはついに悟りを開きます。
「掃除をしてきれいになったと思っても、木々から枯れ葉が落ちたり近所の子供に汚されたりなどして、しばらくするとまた汚れてしまう。
これは庭だけの話ではない。人の心も同じなのだ。
きれいな心になったと思ってもいつの間にか、どこからか邪心が湧いて心が汚れてしまう。
心も絶えず掃除をしなければならないのだ」
そのような悟りを開いたのでした。
~ここまで~
この話を今になって思い出した私は、調べてみました。
主にウィキペディアを参考にさせて頂いています。
まず、このバカなお弟子さんは周利槃特(チューラパンタカ)という人でした。
(経典により「周利槃陀伽」「周利槃陀迦」「修利(周陀、周梨)槃特」「注茶半託迦」などの名もあります)
この周利槃特には摩訶槃特(マハー・パンタカ)という兄がおり、その兄はとても聡明だったそうです。
お釈迦様の弟子になったのはこの兄に勧められたからなのですが、あまりに愚か過ぎてその兄から還俗を勧められたのだそうです。
そこで周利槃特が嘆き悲しんでいたところ、お釈迦様に励まされて掃除をすることになりました。
この辺りの話を補足致しますと、お釈迦様は以下のように仰って励まされたのだそうです。
「お前は愚か者などではない。
お前は既に知っているではないか。自分が愚かであるということを。
真の愚か者とは、自分が愚かであるのにそれに気付くことなく、むしろに賢いと思っている者のことを言うのだ」
ここら辺は、ソクラテスの「無知の知」に通ずるものがあるような気が・・・・・・しないでもないです。
そんなことがあって、箒を渡されて毎日掃除に励んだ周利槃特が悟りを開いたわけですが。
これも正確に言いますと、悟りを得た後に周利槃特は阿羅漢(尊敬や施しを受けるに相応しい聖者)の一人となりますけども。
その阿羅漢の中でも特に優れた十六人の阿羅漢の一人に数えられるまでになっています。
それを十六羅漢と言い、その十六番目が周利槃特なのですが、この時は「注荼半託迦」の名で呼ばれることが多いようです。
ちなみに兄の摩訶槃特は十番目で、この時は「半託迦」の名で呼ばれることが多いようです。
お兄さんはおそらく、普通にお釈迦様の下で勉強されて十六羅漢になったのでしょうね。
さて、私がここで書きたかったことは・・・・・・
「どんなことでも、ひたすらがんばったら悟りを開くこともできる。
だから、何も考えずにひたすらお仕事をがんばろう!」
・・・・・・では、ありません。決して。
そんなんで過労死したり、ワーキングプアのまま不幸になったりしたら大変です。
この周利槃特の場合は、たまたまできることが掃除だけだったから掃除をやったということであって、職業が清掃員だったのではありません。
ならば職業は何かと言えば「お釈迦様のお弟子さん」です。
そしてもう一つ。
周利槃特は自分を知っていました。
あまりに愚かな人間だということを。
- 『敵を知り、己を知れば百戦危うからず』
孫子の兵法です。
これにも通じるものがありますよね。
というわけで、結論と致しましては。
その目的を達成するために自分に何ができるかを良く考えて、そしてやると決めたらとことんそれをがんばるという、そういう話ではないかと私は思うのです。
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ありがとうございました。
これからも頑張りますのでよろしくお願い致します。
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