周利槃特(チューラパンタカ)に学ぶ、本当に大切なこととは?
こんにちは。本木 ななです。
私とろくがお世話になっております。
前回、周利槃特(チューラパンタカ)の話を書きましたけれども。
この周利槃特(チューラパンタカ)の話で気付いたことがありましたので、ここに書いておこうと思います。
私たち日本人はですね、良く言えば地に足が付いていると思うのです。
身近なことを疎かにせず、誠実にコツコツと働くことが得意です。
その反面、目的と手段を取り違えてしまい、その目的を見失ってしまうこともあると思います。
またそれ故に、それが生産性の低下に繋がるということもあるのではないか、とも思うのです。
もうちょっとわかりやすく書きますと。
今、目の前にある仕事に全力を尽くす。
そのあまりに、本来の目的・・・・・・利益を上げるために仕事しているということを忘れてしまうこともあり。
あるいは、周囲の人に対する気遣い。
気持ち良く働くことができるという利益がある反面、やり過ぎて無駄な作業が増えてしまうこともあり。
ただしこれは悪いことだけではなく、お客様に対してこの力を発揮すると“おもてなし”という他国にはない我が国独特の良い文化ともなります。
欧米ではそのようなことはありません。
とことん利益を追求します。
時に日本人の目から見てやり過ぎではないかと感じるほどに、容赦なく。
だからこそ、カルロス・ゴーンさんみたいな優秀な経営者が出てくるのではないかと私は思います。
しかしそれは、よく考えたら当たり前の話かもしれません。
欧米人は狩猟民族ですから。
仕事と言えば狩りであり、駆るべき獲物という目標がはっきりしています。
私たちのような農耕民族で、昔からずっと稲作ばっかりやっていますとどうなりますでしょうか。
仕事と言えばお米を作ることであるはずなのですが、田植えやら稲刈りやら脱穀やら、そういう一つ一つの作業を仕事だと錯覚してしまうことがあるのではないでしょうか。
その一つ一つの作業を疎かにせず誠実に向きあっているからこそ、陥りがちな罠なのです。
ではここで、周利槃特の話に戻ります。
お釈迦様から掃除をするように言われた周利槃特は、毎日毎日熱心に掃除を続けます。
日本人だったらその熱心さのあまりに、そのまま清掃員になってしまうかもしれません。
ここもあそこも汚れている、掃除すると清潔になって気持ち良い、とことん細部までまた範囲を広げて止まらなくなって・・・・・・と、そんな感じで。
しかし周利槃特は決して、本来の目的を忘れることはありませんでした。
お釈迦様の弟子として、悟りを開くのがその目的です。
私もこの周利槃特のように、本来の目的に向かってブレることなく精進したいものです。
と、言うのは簡単ですが、実際には非常に難しいことだと思います。
率直に申し上げて、今の私にできているとは思えませんし、それ故にその説明もできません。
ですが、傍目八目と申しますか、高校の教員であった私の母の場合に当てはめてこの説明をすることはできます。
次回以降はそのことを書いておこうと思います。
(はっきり申し上げて、最後は悪口のようになってしまうとは思うのですが。
先に書いておきます。母には感謝致しております。
別居して家にお金を入れなくなった父に代わり、母が働きに働いてくれたおかげで、私と弟二人は大きくなることができました。
それだけではありません。
母は高校の社会科の教員としても優秀でした。
母が教えたクラスは概ね、社会科の点数が良かったようです。
また、進学する生徒が比較的少なくあんまり偏差値の高くない高校に赴任した時も、母は決して授業に手を抜いたことがありません。
「進学する子はほとんどいないから、そんなに熱心に教えても意味はないのに」
そのように陰口を叩かれても、母は気にしませんでした。
「確かに現役で大学を目指そうとする子はほとんどいないかもしれない。
しかし中には就職した後に、やっぱり大学に行きたいと思う子もいるかもしれない。
その時に、今回の授業で黒板に書いたことが役に立つかもしれない」
そう言って、決して手を抜いた授業などすることはありませんでした。
その点は本当に素晴らしいことだと思います。
って、ここまで褒めに褒めちぎって、どこからどう悪口になっていくのでしょうか。
我ながら、性格悪いなぁー。笑)
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ありがとうございました。
これからも頑張りますのでよろしくお願い致します。
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