普段何気なーく利用している地下鉄御堂筋線の話
こんにちは。本木 ななです。
私とろくがお世話になっております。
2017/06/12に書いた『後編)格差はあって当たり前。むしろ、ちょっと前までが例外だった?!』という記事で、私は“今の日本人に多大なる影響を及ぼしているのは江戸時代”だと書いていました。
その日本人に与えた多大なる影響の一つが、お金についての考え方ではないかとも思っています。
ここら辺の話にご興味ある方は以下の記事もどうぞよろしくお願い致します。
『後編)日本ではお金の話題を避けようとする人が多いのは何故?』
『追記・後編)日本ではお金の話題を避けようとする人が多いのは何故?』
その江戸時代についての話をもう少し、ここでも書いておきたいと思いました。
出勤時に御堂筋線に乗っていてふと、そんな気持ちになりました。ははは。
天下人となって江戸幕府を開いた徳川家康は徳川家の支配を盤石なものとするために、いろいろな手を打っています。
上記リンク先で書いた「お米を持ち上げ、お金を蔑視しそれを扱う商人を貶めること」と並行して、外国との貿易を独占し統制や管理等もしましたし、重要な鉱山を直轄経営としました。
これは貿易などで財を得て勢力を拡大した、大友氏や大内氏のような大名がいたからでしょう。
それともう一つ、力でのし上がった後に大名や武将が欲したのは、文化人としての地位でした。
後の時代にも文武両道と言われ続けたほど、武将は文化人としての評価も気にしているのです。
そこで文化人としての権力を誇ったのは、千利休や今井宗久などの茶人でした。
あとそれからもう一つ、宗教の力も侮れません。
比叡山焼き討ちに石山合戦などが有名です。
というわけで、ここで書きたかったのは経済的な話以外の後者二点についてです。
やったことは同じで『二派に分けた』ことでした。
二つに分けてそれぞれの勢力を半分にし、さらにそれらを互いに反目させて勢力を削ごうとしたわけです。
千利休を祖とする千家を表千家と裏千家に分け、本願寺を東本願寺と西本願寺に分けました。
……と、学校で習ったような気がしたのですが、千家の方は徳川家の政策とは関係なく分かれていたみたいです。
何故かと言えば「一方の家に何かあっても、もう一方の家が無事なら存続できる」から、なのだとか。
これはどちらかと言えば、真田氏の考えに近いですかね?
というわけで、ここでようやくタイトルの「地下鉄御堂筋線の話」ですが。
この地下鉄の路線は「御堂筋という道路の地下」を通っています。
で、その御堂筋という名前はどこから来たのか?
それについては「産経WEST」の以下の記事をご覧ください。
『なんで「御堂筋」って名前なん? 由来は沿道の2つの巨大寺院』
お時間のない方のために以下、引用させて頂きます。
御堂筋の名前の由来は、本町付近の沿道にある2つの巨大な寺院とされています。ともに16世紀末、この地に移ってきた「北御堂(浄土真宗本願寺派本願寺津村別院)」と「南御堂(真宗大谷派難波別院)」。2つの御堂を結ぶ道だから、「御堂筋」ってわけです。
これをもう少し詳しく書きますと「北御堂」が「西本願寺」で「南御堂」が「東本願寺」です。
ついでに言えば「西本願寺」が「龍谷大学」や「京都女子大」などで「東本願寺」が「大谷大学」や「京都光華女子大学」などです。
私は大学進学時に京都にいたわけですが、当時お世話になったバイト先に龍大と大谷大の学生さんがおりました。
彼女らは仲が良かったのですが「仲良くすると本当はダメなんかなぁー?」とか、そういう冗談を言っていたことを思い出しました。
……って、地下鉄の御堂筋線にはあんまり関係なかったような……。
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